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中間管理職が読む『宝石の国』

宝石の国』の感想です。
102話までのネタバレを含みます。
単行本12巻が98話までなので、未読の方はご注意ください。
興奮のあまりネタバレに配慮してません。
 
 
聞かれて困る質問第1位、「好きな漫画は?」。
好きって、人に薦めたいって意味?
影響を受けたって意味?
死ぬ間際にも読んでいたいって意味?
この質問に答えるのは難しいが、シンプルにパッと頭に浮かぶ漫画は3つある。
 
 
順位をつけたいわけではないが、もしかしたらこのどれかを追い抜いて、『宝石の国がパッと頭に浮かぶかもな。
そう思わされた漫画だった。
要はめちゃくちゃ面白かった。
 
人から薦められる事は多かった。
タイミングが無くて手を出していなかったが、漫画アプリの無料期間に読み始めた。
止まらん止まらん。
1日1話読めるのだが面白すぎて毎日楽しみだった。
明日が来るのが毎日楽しみだった。
 
アプリのプレゼントも利用しながら、2ヶ月程かけて読んだ。
いや、凄いわこの漫画。
一気読み(?)したおかげか、キャラクターへの愛着よりもストーリーへののめり込みが勝った。
最初から応援しているファンの友人には悪いが、カンゴームの変貌には好感を持ってるし、フォスフォフィライトの行動にも違和感は感じなかった。一気に読んだおかげで、そういうストーリーだと受け入れられた。
 
1、絵がいい。
「上半身は少年、下半身は少女を意識している」という作者の意図通り、唯一無二のデザインになっていると思う。
宝石の国』のファンアートを描くにあたり作者・市川春子さんの絵のまま模写や練習をしたのだが、この画風は今まで出会った事の無い感触だった。楽しかった。
元々、宝石とは美しいものである。
宝石の擬人化という前提があるので、美形キャラばかりという点にロジックがあり、読みやすかった。
(好きな漫画を見て頂ければ分かると思いますが、筆者はイケメンばっかり出てくる漫画は苦手です。夢がなくてすいません。)
 
2、世界観がいい。
舞台が現実的だと、共感はしやすいが違和感を感じると没入感が薄まるというデメリットがある。
“遥か未来の地球“というSFではメジャーな舞台だが、それが明かされるのは、読者にキャラクターの魅力がしっかり伝わり、フォスフォフィライトの事を応援したい気持ちが育ってからだ。
世界観説明の引き算が上手い。
穏やかな自然の中、少年とも少女ともつかない魅力的なキャラクター達が、”先生”と呼ばれる唯一ハッキリとした男性のもと、正体不明の仏のような敵と闘う。
“先生”は僧侶の姿で、強い。
宝石たちも武器を手に戦うが、負けると体を敵に持って行かれてしまう。
敵の目的は何か?
“先生”は強いのになぜ毎回宝石を守らないのか?
説明が無いので「そういうものなんだ」と、読者は宝石たちと同じ目線で世界観を享受する。
説明が無いのに納得できるのは、単純に絵が上手いからだと思う。
キャラクターだけでなく、硬物・軟物・個体・液体・闇・光、描く全てがシンプルという統一性でデザインされている。
絵が上手いから、後半につれて、『宝石の国という物語の主軸がエグい本性を表して来てもサラリと読み飲み込めてしまったのだ。
 
3、キャラクターがいい。
無性の宝石人間たち、人間よりも遥かに長い寿命を生きる。
物語の時間の流れは壮大で、100年とか200年とか普通に越す。
後には1万年すらも。
有機的な営みが必要ないから、遊んだり研究をしたりと悠々自適に日中を過ごし、たまに闘い、夜はみんなで眠りにつく。
理想の学校、永遠の学生。
プラトニックな人間関係ゆえに、清純な女子校を思わせる。
宝石達の生活はロマンティックで、(戦闘以外は)楽園の日々と言える。
我々有機的な人間は、そんな宝石達の生活を覗かせて貰っている。
それぞれの宝石の思考や、人間(?)関係を理解する(読ませて貰う)事で、理想の女子校を覗いている背徳感もある。
しかし彼らは宝石。
性の概念が無いというのがまた唯一無二の世界を作っていて、色っぽさや愛情なんかを感じるのはしょせん、観測側の我々人間にしか無い感性なのだ。
 
…そんな綺麗な世界観にハマった友人には悪いが、読了した今、この舞台設定すら主軸物語の伏線だったと思う。
 
4、フォスフォフィライトの成長
フォスフォフィライトは無邪気で無力だった。
フォスが力を望まず、“ありのままの弱い自分でい続ける”事を受け入れていたら、『宝石の国は楽園ほのぼの日常まんがになっていただろう。
しかしフォスは強さを望み、それは(彼の)楽園を失う事と同義だった。
他の宝石は、変化を望んでいなかった。
変化するという思考すら無かった。
他の宝石は、疑問を持たなかった。
フォスだけが、世界を理解しようと知識を望んだ。
振り返ってみれば、この行動こそがフォスを人間たらしめるものだった。
だからフォスフォフィライトでないとダメだった。
動物に無くて人間にだけある欲求、それは“知識欲”だから。
 
5、推しはフォス
最初は「主人公こんなに見た目変わったら分からんだろ…」と否定的だったのが、逆に「宝石の国でしか出来ん事や…!」とハマった。
どのフォスも好きだ。
最初の可愛いフォスも好きだし、キリッとしたアゲートフォスも格好いいが、ラピス・ラズリの頭脳を手に入れて無敵モードになった後、真実を知り月で打ちのめされたフォスがたまりませんでしたね。
ドン底に落とされてから這い上がっていくキャラクターが好きなもので。
フォスは結局、這い上がれずいわゆる“闇堕ち”してしまったが、そこにはエクメアの策略が絡んでおり、筆者的にはフォスが悪いと全く思えない。
エクメアにいいように使われ、彼の目的のために利用された被害者だ。
 
宝石の国』を読んでいた頃、会社のゴタゴタに巻き込まれていた。
だから月世界編のフォスに自分を重ねて感情移入していた。
宝石の国』を読んで、フォスに対する感情は人様々だと思う。
自分にとっては、つらい時期にを一緒に歩んでくれる救いだった。
落ち込んでいると、キャラクターが幸せになる物語では救いが得られない時もある。
だから自分は『宝石の国とフォスフォフィライトが好きになった。
 
前置きが長くなりました。
筆者がフォスフォフィライトというキャラクターに抱いた感情は、『共感』でした。
無を望む事は逃げる事。
無を与える事は生きる事。
 

-中間管理職が読む『宝石の国』-

 
目の前の事を一生懸命やっていたら、いつの間にか取り返しのつかない所まで来ていた。
気づけば自分ばかりやる事が増えていて、あれっあいつら何で仕事一個しか担当してないの?
“知りたい”や“行ける所まで行きたい”なんて感情は、独りよがりな物だと初めて知った。
利用されるだけ。
意欲の無い人間にやらせるより、意欲のある人間にやらせる方が楽だからね。
あーあ。
 
でも、後悔はしていない。
性に合わねーんだ、自分の感情に従わない事は。
知りたかったから学んだ。
行きたかったから上を目指した。
他人(上)に利用されていた事はショックだが、それでも自分の行動は変わらなかったと思う。
 
フォスだってそうだろう?
違う自分を目指して踏み出した行動は、他者(宝石)からしたら「なんでそんな事やってんの?笑」だ。
だって、あんたらがさぁ。
あんたらがやらなかったからやったんじゃないか。
その行動は“必要とされていなかった”。
この空回りは残酷で、フォス目線でストーリーを追っていた人はしんどかったと思う。
「フォスがいない時の方が平和」
「フォスがいるからトラブルになる」
「フォス(の行動)はイタい」
このような感想を見かけた時は辛かった。
こういう感想を持つ人々と、フォス不在中に平和を謳歌する宝石達を同族に感じた。
もちろん、キラキラした理想郷での日常を楽しんでいた読者にとってはフォス目線のストーリーがしんどいどころか、望まぬ物を見せられているという気持ちだろう。
でも、これはフォスフォフィライトの物語だ。
自分の気持ちに正直ゆえ日常を壊して変化させる物語だった。
 
新しい仕事をどんどん覚えるのは苦ではなかった。
自身の性質と会社の欲求が合致していると喜ばしかったから。
それは見せかけで、自主的に動いている、と上手く思わされていただけだ。
エクメアも、フォスの“人間としての素質”に気づき、上手く動かした。
エクメアは会社にいたら出世早いだろうな。嫌いだよ。
 
現実離れしたキャラクター達は、魅力の一つだ。
純粋で無垢。
性善説の擬人化とも言える。
フォスだけが、無垢を捨てていった。
嫉妬と暴虐の種が芽吹いて、月で苦悩する様は地上の宝石達とは真逆の姿だ。
性質の反比例、それは人間性の獲得と同義だった。
自身について苦悩するフォスの姿は、どうしたって“人間らしい”と感じた。
現実離れした宝石達より、淀んだ感情の中で泥を掻き分けるようにもがくフォスの方が、人間らしくて好きだった。
我々有機的な人間と同位にある矮小さが、愛おしかった。
だから月世界の途中くらいかな、「フォスは人間に近づいている」と感じた。
三族のうち、=骨(宝石)と肉(アゲート)は手に入れているから、あとは魂(月人)が宿れば“にんげん”が完成するな…と展開を想像していた。
実際、エクメアの策略が“フォスを人間にする”という点は想像通りだったが、目的が“金剛が人間と認める存在を造り、祈らせ魂(月人)を無に帰すこと”だったとは…。
いや、それは分からんよ。
逆にそこまで読めてたら面白くけども。
 
それも失敗したエクメアは、次の手に“フォスの金剛化”を図る。
そしてそれが成功する。
1万年というフォスにとっては牢獄の、月人達(宝石含む)にとってはあっという間の享楽を経て。
フォスの姿は完全に人の姿を得ていた。
凄いなと思うのは、成人男性の姿だった事。
少年期が終わり、成長しきって完成した“にんげん”の姿(あとに待つは老化のみ)。
 
「あれは誰だろう?かわいいね」
 
というセリフにショックを受けた読者は多い、ていうか全員、と信じたい。
 
自分に重ねて涙が出た人もそこそこ居た、と信じたい。
気づけば新人の頃の気持ちは無くなっているんだ。
22歳の純粋さに、もう二度と取り戻せない自分を重ねて、重ならないと気づいて、自分の当時を思い出そうとして、思い出せない事に気づいて、記憶のなかの自分は全くの別人になっている。
記憶のなかの自分に「あれは誰だろう?かわいいね」と呼びかける。
そして走り去ってしまうんだ。
 
フォスの切なさを知らない人たち。
変化してこなかった人たち。
でも、悪者はいない。
みんな、好きに生きてきただけなのだから。
悪者はいない。
それでいっそう、つらさが際立つ。
 
フォスフォフィライトの苦しみは、辛さは、誰にも分かって貰えない。
ただ、エクメアと金剛先生は、せめて同じ視点を持っていたしフォスを理解する事も出来ただろう
ただ、ふたりは歳を取りすぎた。
疲れてしまったんだ。
やる気のある若手を利用する事しか策が思いつかなくなっていた。
「フォス…今度一緒に飲もうな…」と心で語りかけるばかり。
 
フォスだけが人間化の対象になったかというと、そうではないと考察している。
エクメアが“にんげん”の“魂”であるから、宝石(“骨“は無機的)と違って恋愛感情を抱くのは自然な事と思う。
その対象がカンゴームだったのは意外で面白かった(「閻魔大王が宝飾品として好んだ」みたいな逸話があるのかもしれないが、ネット検索ではヒットしなかった)。
カンゴームもまた、”骨”でありながら恋愛感情を知り、エクメアを受け入れた。
それまでのプラトニックな『宝石の国』の世界観との、明確な区切りだった。
 
実際、「カンゴーム 宝石」で検索すると、『宝石の国』関連ばかりだし「気持ち悪い」という感想がほとんどだった。
当然というか、それまでの現実離れした無垢な世界観を、現実的で不浄さすら漂う世界観に180°変わってしまったのだから。
これは作者が悪いと思う(笑)
ただ、102話を読み終えて振り返った時、フォスと対の存在として“エクメアに愛され恋愛感情を知ったカンゴーム”は重要で必要だった。
月世界編において、第2の主人公的描かれ方をしたしね(なんでイチャイチャドライブ編とか見せられてんだろう?とは思った)。
 
1つ、前述のように世界観の変化を描くため。
3族の統一に向けてストーリーが動いていく以上、バラバラになっていた“にんげん“の要素をひとつにしなければならない。
宝石達が担っていた”無垢さ”と、月人が担う“俗っぽさ”を繋ぐ事は、フォスには難しかった。
フォスはすでに骨(宝石)と肉(アドミラビリス)を繋いでいたから。
何より、主人公だから。
“俗っぽさ”はつまり、“有性”を表す。
宝石の国』で揺るがしてはいけない点に、宝石達が無性であるという設定がある。
これを揺るがさないと3族の統一には向かえない。
そこでカンゴームが登場だ。
フォスにこれをやらせたら、訳がわからなくなってしまう。
実際、カンゴーム自身は幸せだが読者からはメチャクチャ嫌われた。
もしフォスがカンゴームの役割を担ったら、『宝石の国は打ち切りだったかもしれない。
 
2つ、エクメアの選択肢として
フォスフォフィライト自身の変化は内省的である。
あけすけに言えば、“自分探し”と断ぜ、そこに他者の影響はあまり無い。
カンゴームは“恋愛”によって変化したが、それは他者がいないと成り立たない。
愛によって変わったのがカンゴームであり、フォスの孤独と対になる。
骨のフォスは肉(アゲート)を得た。
骨のカンゴームは魂(愛)を得た。
筆者は、そのためにカンゴームも“にんげん”になる可能性があったと考える。
エクメアがフォスを“にんげん”に選んだのは、ただ“好きじゃなかった”からに過ぎない。
宝石の国』の性別は一言で説明できず複雑だが、フォスとカンゴームは同じ立場にあると考えて読んでいたから、ふたりを分かつものが“エクメアの愛情”だったのがたまりませんね。
知性が向上すると結婚率が下がるという、我々人間社会への痛烈な皮肉のようにも感じました。
 
与えられた仕事を一生懸命やっていたら周りはどんどん結婚していって、取り残された会社員みたいなフォスフォフィライト。
あれは誰だろう?かわいそうだね。
あれはどこにでもいるひとりの人間だね。かわいそうだ。
ただフォスが人間と違うのは、取り残された事に気づいた時にはすでに同じ立場の者がいなくなっていた事だ。
フォスは“にんげん”になりかけていたし、宝石もアドミラビリスも全員、月人になってしまった。
筆者は、「あれは誰だろう?かわいいね」というセリフより、「私(わたくし)は初めからずっとひとりだったのです」「この一万年と少しの間には 何も無かったのです」というセリフの方がずっと辛い。
意地っ張り、ここに極まれり。
後悔したり、諦めてもよかったのに。
「ずっとひとりだった」と思う方が楽だし傷つかないけれど、そう思わなければ、壊れてしまったのだろう。心は。
心を守るためにフォスは、あなたは、”にんげん”を超越したんだね。
 
誰もいなくなった地上で、フォスが次に出会ったのは“芸術”だった。
物語としては、これまでの謎に決着がつき、張りつめたテンションが緩んだ99話。
「これから先何を語るんだろう?」と予想がつかなかったが、新生命体の“石”の登場と、孤独を癒すツール/石とのコミュニケーションツールとして“音楽”が使われる事に感動した。
先の展開は予想できないし、フォスのこの先を、ただ見届けたい。
生きる事に真面目すぎたフォスフォフィライトは、無に帰される事を選ばず生きる事を選んだ。
だから好きだ。
傷ついても汚れても生きようとするひと。
死に逃げるひとたちよりよっぽど美しい。
フォスフォフィライトは一番美しい。
 
石の時代になって、初めて芸術が登場した事に気づく。
(レッドベリルやクイエタの洋服製作は別として。“自己表現”としての芸術という意味で。)
苦悩の果てに独りになったフォスが、争い果てて「何も無かった」と言い切ったフォスが、『石』の歌に感動する。
なんというか、傷ついたひとを救えるのは文化とか芸術なんだなぁと思って、しんみりした。
こんな姿になってやっとフォスと繋がった気がした。
そこには茫漠とした感動の時間が流れていた。
 
遠い遠い世界を想像する時、我々は日常を忘れる。
目を開けば窮屈な社会と会社に四方を固められているけれど、それは、たぶん、我々が“人間”であるどうしようもない証明だ。
人間は、その四方の壁の中から、自由な草原で歌うフォスを想える。
はるか過去に居る中間管理職は、フォスフォフィライトの幸福を心から祈っている。
 
漫画という娯楽に支えられて日々は続く。